姫路城
姫路城と言えば、歴史に翻弄された徳川家康の孫娘、千姫のことが思い浮かびます。天下をめぐる徳川・豊臣両家の争いに巻き込まれた薄幸の美女です。秀頼の行く末を案じた秀吉は千姫と婚約させることでひとまず秀頼の安泰を図ろうとしました。その時、秀頼六歳、千姫二歳の時でした。1598年秀吉が没すると、関ヶ原の戦いで天下をとった家康は1603年征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。豊臣家および豊臣家恩顧の諸大名を安心させるため、家康は七歳になった千姫を大阪城に送り、秀頼と婚礼を挙げさせました。
ところが、家康が将軍職を秀忠に譲ったことで、徳川家が豊臣家つまり秀頼に政権を返上する意思がないことが明白になりました。それまで政権返上の大事な証であった千姫の存在は、俄かに違ったものになってしまいます。旧主を裏切った憎い家康の孫娘と同時に秀頼の無事を保証する人質となったのです。針の筵に座らされた千姫が危惧したとおり、祖父と父は大坂城に攻め入りました。
落城の時、干し飯蔵に逃れた姑の淀殿は中を三つに仕切り、一方の端に秀頼、真ん中に女中たちを入れ、自分はもう一方に千姫とともに入り、千姫の振袖を膝の下に敷いて懐剣を握っていました。侍女が機転を利かし、「秀頼様ご自害」と叫び、淀殿が秀頼のもとに駆け込んだすきに千姫を窓から脱出させることができました。
江戸へ向かう途中に数日桑名城に滞在した千姫は、城主本多忠政の嫡子忠刻にもてなしを受け、この端正な顔立ちの若武者に密かに心を寄せました。傷心の千姫を憐れんだ家康は姫の幸せを願い、もう一度嫁がせようと考えます。再婚の意思を尋ねられた千姫が母於江に告げた名は本多忠刻でした。忠刻は家康の曾孫でもあり、婚儀はすんなりと決まりました。
忠刻の父、本多忠政は播磨の国(兵庫県)15万石を与えられ、1617年、姫路城に移り、千姫を迎えました。忠政は将軍の姫君である千姫の為に大々的に姫路城を修築しました。ここで千姫は夫にやさしくされ、舅、姑にも将軍家の姫として大切にされ、一男一女にも恵まれ、初めて幸せをかみしめることができたのです。ただ、この幸せも長くは続かず、嫡子がわずか3歳で夭折すると、夫も病に倒れて31歳で他界してしまいました。僅か10年の結婚生活でした。
姫路城をご覧になるとき、幸薄き千姫が幸せな時を過ごした場所であったことも思い起こしてください。